川中地区散策Ⅲ

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散策の道 綾羅木①

【中山神社】(綾羅木本町七丁目)

  明治維新の先駆者であった青年公卿
中山忠光を祀っているのが綾羅木海岸
寄りにある中山神社です。
 中山忠光公は明治天皇の叔父にあたり
幕末の動乱期に急進派の青年公卿として
活躍しましたが、元治元年(1864年)
12月、20歳の時に兇徒に襲われ暗殺さ
れました。
 境内には彼のお墓とともに、中国最後の
皇帝、宣統帝(薄儀)の弟、愛新覚羅薄傑
及び彼の妻で忠光のひ孫にあたる浩を祭神
とする「愛新覚羅社」があります。



「中山忠光卿墓」
 国指定史跡(昭和十六年八月一日指定)

 中山忠光は、幕末に国事に奔走した
尊攘急進派の少壮公家。
 弘化二年(1845年)四月、中山忠能の
七男として出生。安政四年(1857年)
従五位下に叙せられ、同五年、侍従に
任じられた。また、万延元年(1860年)
には、甥にあたる睦仁親王(のちの
明治天皇)に祗候した。
若年時から諸藩の志士たちと交わる。
 特に文久二年(1862年)以降は国事
御用掛に任じられた父忠能の許に出入り
する、武市瑞山・久坂玄瑞・吉村虎太郎・
真木和泉等の尊攘急進派と交際し、次第に
尊攘公家の代表的な存在となっていった。
 文久三年(1863年)二月、十九歳の若さ
で国事寄人に任じられたが、三月の攘夷
祈願の加茂行幸に供奉したのち、下関での
攘夷戦に参加するため、官位を辞し、京都
を脱して来関した。竹崎浦の白石正一郎邸
に寄宿し五月には久留米に赴き、獄中に
あった真木和泉を救出した。
 六月、吉村虎太郎等と帰京し、孝明天皇の
攘夷祈願のための大和行幸を画策。
また、この攘夷親征に呼応するため、吉村
虎太郎、松本奎堂等と天誅組を結成し、
八月十七日に大和五条で倒幕の兵をあげた
            (天誅組の変)
しかし、八月十八日の政変により孤立し、
十津川幕府軍の討伐を受け敗退。その後
下関に落ちのび白石家に潜伏したが、長府
藩に幽閉され、藩内各所を転々とした。
  禁門の変、下関戦争、その後の第一次
長州征伐により攘夷運動が挫折した元治
元年(1864年)11月、幽閉先の田耕村
杣地(豊北町)で長府藩保守派により
暗殺され、この地に埋葬された。
享年二十歳、のちに新政府から正四位を
贈られた。

 

 

散策の道 綾羅木②

「愛新覚羅社」中山神社の境内にあり

 愛新覚羅家は中国大陸清朝の直系にて
溥傑命は清朝最後の皇帝宣統帝となられた
溥儀皇帝の弟君である。
 溥傑命は日本の陸軍士官学校を恩賜軍刀を
授けられ又、陸軍大学をも卒業された文武
両道に優れたお方でありました。
 戦後は中華人民共和国全国人民代表大常任
委員及び全国政治協商会議常任委員として
中日国交回復及び両国友好に尽力されまし
た。浩命は公家の中でも名門の嵯峨侯爵の
長女として誕生され日本国と満州国とを結
ぶ親善結婚として溥傑命に嫁がれたのであ
ります。しかし戦後は満州国の崩壊、
逃避行、文革の嵐と様々な経過を辿られ
まさに昭和史いや世界史を一気に走り抜け
たお方でありました。
 慧生命は溥傑命と浩命の長女として誕生さ
れ、名前は溥傑命がお付けになられました。
 学生時代中日両国の架け橋として自ら中国
語を学び、周恩来首相に直接父親と一緒に
暮らしたいと訴えた手紙を出され、そのこ
とが溥傑命の特赦へつながったのでありま
す。しかし運命の成せる業か天城山にて
不慮の事故に遭遇されたのでありました。

散策の道 綾羅木③

 六地蔵(綾羅木本町2丁目)

 二石の六地蔵。
 高さ55センチ、幅124センチ。

“咳のコツるのを鎮めてくださる
 とかで、お参りの人が多いと言う。
 
 川は三途の川の意味であろう。

   (『郷土』25号所載
        中西輝磨「下関の六地蔵」)

 かって8月の地蔵盆には、子どもたちが
晴れ着の浴衣を着てこの地蔵様にお参りを
したという。昔はここに小さなお堂があり
カネリたちがカゴを洗って安岡浦に帰って
いった。
   現在は綾羅木橋の麓 下流側に
 置かれている。

 


 綾羅木川

 綾羅木川の下流域は広域な沖積平野を
成し現在は住宅地や商業地に蚕食され、
なお広々とした水田が広がっている。
有富のもっとも上流域に位置するところ
ですら、海抜が四~五メートル程度である
ため古くからしばしば水禍に悩まされて
きた。小森二ヵ所(延行・伊倉)や
こもの口(綾羅木)の字名は、川の氾濫時
に水が籠るという意味で、コモリと命名
されたものであり、水が滞留するその入り
口であることからコモ(リ)の口であった
綾羅木川(昔は石津川)は、北流して梶栗
川と合流し、梶栗町1丁目から響灘に注い
でいた。現在のまっすぐな流路に変わった
時期は明らかでない。旧川沿いに南古川、
北古川、新たな川沿いに新川という字が
あった。

 綾羅木橋 
(綾羅木本町2丁目・5丁目と
   綾羅木新町4丁目との間)

 綾羅木川の河口から約2キロメートル上流
のところで国道191号線を結んでいる。
『御国廻御行記』(1742年)には
「石津川」に”板橋十四間“が架けられてい
た。このころは綾羅木川を石津川と呼んで
いたものらしい。旧北浦街道はここを通っ
ていた。

『長門国大道小道并灘道舟路之帳』に、
“一、福江より幡生迄二里拾二町、此内河
壱ツ石津川廣卅間深二尺かち渡、大水出
候時ハ渡り無之“とある。
 “県から最初に補助を受けて造った道は、
幡生から安岡までのもので、
これは明治5年(1872年)に川中の
水川正亮らの奔走によってたのである。
この道路に架ける橋のために水川は京阪神
地方に行って、大阪では天満橋、京都では
三条大橋・五条大橋、山城の山崎橋などを
調査して帰り、橋脚に石材を用いて工事を
行い道路の完成とともに望洋橋が出来上
がった。これがこの地方で最初の県道とい
えようが、このため赤間関と北浦方面との
交通の不便が大いに除かれたのである。
“『下関市史』藩制~明治前期
『山口県風土誌』には豊西下村の橋梁に、
“綾羅木村字古橋・字新田入会、長拾
六間、幅弐間、高欄附土橋、県費修繕“
とある。昔は県道で、明治10年5月、
県道改修の際に架けられ、望洋橋と
名付けられた。
 昭和5年コンクリート造りの永久橋に架け
かえられた。この橋の完成を祝って橋の由
来が刻まれた望洋橋の碑が川北神社の境内
に建っている。
県道はやがて国道となり、昭和50年建設省
は4トンの重さに耐える幅8メートルの
綾羅木橋の架橋工事に着手し、52年3月
31日に開通した。
 長さ41.2メートル、幅16メートル
40トンの重さにも耐えられる。
   「市報しものせき」
     昭和60年1月1日号

 この付近に、藩制時代には茶店があった。 
 豊浦郡宇賀の村医、古屋道庵の日記、
慶応3年(1867年)4月10日の条に
“束装天明上途、綾羅木店に休む。馬関商
人在り、酔話に曰く、此の海口に碑有り、
すなわち中山侍従の墓也、其の妾すなわち
馬関生まれ、今一男を生み山口に在り、
萩公之をと云う。
店婦また曰く信なり、
侍従君命日2月11日云々。”と記す。

 

綾羅木川河口側から見た綾羅木橋
綾羅木川上流から空撮 中央の橋が綾羅木橋

散策の道 綾羅木④

 綾羅木駅 (綾羅木本町2丁目)

 JR綾羅木駅は字浜口に大正3年
(1914年)4月22日に開設された。
 当時は東下関駅から小串までの区間で、
 長州鉄道株式会社に属していた。
 駅舎は現在の駅から北方約200メートル
の位置にあった。
 大正14年6月1日に長州鉄道の幡生
小串間が国有となった。
 昭和61年2月12日に、綾羅木駅前に
   弥生の土笛の碑が建てられた。


 

 


 [
綾羅木浜 ]

 藩制時代綾羅木村の郷の一部で、浜ある
いは西浜と呼ばれ、勝ケ野、吹上、高山な
どといった小名を持っていた。
 『地下上申』付図には、
その全域がほとんど白地で示されている。

 藩制時代の中頃、永富独嘯庵らが綾羅木の
海岸(現在の綾羅木本町)で、サトウキビ
の栽培を行ったため幕府から砂糖の密貿易
の疑いがかけられ、幕府は宝暦六年
(一七五六年)九月、幕吏を派遣し独嘯庵
らから事情を聴取した。
 綾羅木の海岸には黍畑と呼ばれる字が
あった。
(きびばたけ:現在の中山神社のある付近)
古老の言によると、ほかに「砂糖べり」と
いう場所もあったという。
 北浦街道に沿って茶店がある以外、浜には
ほとんど人家がなく、勝ケ野といわれる
あたり(現在の綾羅木本町の中央)は深い
松林につつまれ、その間に点々と畑地が拓
かれているに過ぎなかった。
 明治の中期以降に県道が整備され、
大正三年四月二十二日には長州鉄道株式
会社が東下関・小串間に、長州鉄道北浦
線を開始し当地(大字綾羅木字浜口)に
綾羅木駅が設置されてからは駅周辺の県道
の両側から徐々に発展し始め、人口も増加
してきた。
 下関市役所川中支所に保管されている
「川中村勢調査原簿」
(大正年間に調査実施されたものか)には
村内を九部落に分ち、その一つに
「綾羅木浜」を挙げている。

 大正十二年三月一日には下関綾羅木
 郵便局が開設された。

 海岸には海水浴場が設けられ、下関市の
 リゾート地として有名になった。

  
 

現在の綾羅木駅(無人駅)
駅舎前に建立されている土笛の碑
綾羅木浜 奥が安岡
綾羅木浜 奥に長州出島が見える

散策の道 綾羅木⑤

綾羅木海水浴場(綾羅木本町7丁目)
 綾羅木海岸は市内有数の海水浴場として
 発展した。
“響灘に面し、広い松原と長い白砂の浜を
 持っている下関随一の海水浴場で、
 環境・設備ともによい。
 また安岡海水浴場にかけての弓状の
なぎさの線の美しさは北浦海岸に比類が
ない”と『下関市史』
 (市制施行以後編、昭和33年)に
    記されている。

   “休憩所14、飛込台3、
    貸ボート150、
  (キャンプ可)ブランコ1”

  戦前には養鶏場がこの地区で盛んに行わ
れていた。“綾羅木浜に起こった養鶏業……
次第に成長して、やがて北九州以東のこの
地方養鶏界では、その地位は屈指のものと
なって来た。”―“綾羅木の養鶏は、大正の
初めの頃から、この土地が養鶏に適して
いることに気づいた長府の某氏の経営に
始まった。その後五、六年にしてキリス
ト教の牧師山田某が、伝道の傍ら養鶏に
従事し、同時に知友達にもこれを奨め、
この地が最も養鶏にてきしていることを
宣伝したので、にわかにこれを試みよう
とする人が多くなった。大正六、七年
1918年~1919年)頃からは副業とし
て盛んになり、大正十五年(1926年)頃
からは専業として志すものもあらわれ、
その後3、4年した頃にはわざわざ他の地
区から入り込んで、専業とするものもあっ
て、たちまち数十軒の業者が生まれた。
関門地方はもとより、朝鮮、満州にまで販
路を進め、下関市内などでは
「新鮮な地玉子」といえば「綾羅木もの」
ということが評判となり、その生業はます
ます盛んになった。”― 
     『川中風土記(徳見光三)』

   太平洋戦争の敗北に伴って、
    鶏卵の主な販路であった「外地」が
    失われたため、綾羅木の養鶏業は
    急速に衰亡した。

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